【仕事も人生もうまくいく「論理的発想」を身につけよう!】数学を使わない数学の講義 小室直樹著

書籍「数学を使わない数学の講義」の写真

数学、得意ですか? 私は苦手です(笑)

文章を書くのは大好きで、得意でもあります。
理系か文系か? と問われれば、私は間違いなく文系でしょう。

私立大学の社会学部社会学科卒業で、今もそういう言い方をするのかどうかは知りませんが、私は「私立文系」という括りに属していました。

理系の友人に

あなたにとっての数学は「数楽」だろうけど、私にとっては「数が苦」なのよ

とか何とか言って、文系らしく言葉遊びに興じたものです(笑)

そんな私ですが、実は数学が嫌いなわけではありません。
無い物ねだりの一種なのかもしれませんが、憧れすら感じることもあります。

この本の「まえがき」に、

我が国では、第二次大戦前、科学の振興のために、特に数学が重視されるようになり、理科、特に「数学が教育の中枢」となった。
 この傾向は戦後も残り、この事が敗戦の痛手を乗り越えて、高度成長を可能とし、死灰しかいの中から見事に復興をとげ、日本は経済大国となった。

「数学を使わない数学の講義」小室直樹著 WACより

 とあるように、なんとなく、世の中に対する貢献度やら何やらで世間的には

理系>文系

というイメージがあることは否めないでしょう。

何とか数学をやっつけたい!(理解してみたい)

という思いで、私はこの本を手に取りました。

著:小室直樹
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教科書や参考書ではないので「数式がスラスラ解けるようになる」わけではありませんが、単純に読み物としても面白く、何より「論理的(数学的)発想」とその大切さについて学べた事は、大きな収穫だったと思います。

今回は、そんな「数学の本」を、「私立文系」である私の文章と「ニャンコの吹き出し」で紹介してみようではあーりませんか!(笑)

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「意見の否定」を「人格の否定」と勘違いする日本人

小室先生は、日本には科学的精神がないということを、様々な例を挙げて解説してくれています。

中でも、特に私が注目したのは、討論・議論についてです。
そもそも、日本人は討論・議論というものができないというのです。

欧米における討論

欧米デモクラシーの考え方においては、「これは私の意見です」と言った場合、当然「科学とは仮説である」という立場を踏まえており、「私の意見は1つの仮説に過ぎません」という意味を持っている。そしてまた、当然「あなたの意見も仮説に過ぎません」ということになる。
 では、どちらの意見が正しいのかという事は、どちらの論理の筋が通っているか、どちらが実証的妥当性を持っているか、によって決まってくることになる。

「数学を使わない数学の講義」小室直樹著 WACより

つまり欧米における討論とは、

まず相手の言っていることが矛盾しているかどうかを見つけることに集中

 ↓

矛盾が見つかれば負け

 ↓

矛盾がない場合

 ↓

どちらがより現実的妥当性を持っているかを、いろいろな例を挙げながら議論する。

と、このような流れで進んでいきます。

結局、討論とはそれに尽きるのであり、論理的一貫性、現実的妥当性だけが問題で、それ以外にはない。だからこそ、誰とでも討論できる。仮説としての意見は、検証されるか、否定されるか、あるいは部分的に正しいところもあるが間違っている部分もあるか、そのいずれかでしかない。

「数学を使わない数学の講義」小室直樹著 WACより

討論を避ける日本人

小室先生は

日本では意見が実体化されてしまい、その人の人格と不可分になってしまう

と述べています。

なるほど!

と思いました。

少し前に書いた営業本の紹介記事で、失注のくだりで私自身が

「決してそんな事はないのですが、何か自分の人格ごと否定されてしまったような錯覚に陥ってしまいます」

と書いていました。
そういうことだったのですね。

意見の否定が、人格の否定につながるのですから、絶対に負けるわけにはいきません。

そうなると、お互いしんどくなってしまうので、日本には討論を避ける土壌が根付いたのだそうです。

 真の討論とは、あの人の意見はここまではこう正しいが、ここからはいけない、だから、自分はこう積み重ねる。また、別な人物が、その積み重ねた意見はここまでは正しいが、ここからは間違っている、だから、自分はさらに、こう積み重ねる、というふうに展開されるものなのだ。しかも、こうした討論のあり方こそ、近代デモクラシー社会を支える柱の一本なのである。

「数学を使わない数学の講義」小室直樹著 WACより

昔、勤めていた会社で受けた「応酬話法」のレクチャーで、こういうものがありました。

反対される理由が「意見」なら「事実」で応酬しなさい。

「意見」は「事実」に100%勝てない。
「意見」×「意見」は水掛け論になるだけ。
「事実」×「事実」はありえない(どちらかが嘘をついている)。

こういうのも「理系発想の議論」の一つなのでしょうね。
まぁ、正しいとは思いますが、個人的には

いやいや、お客さんを論破してどうするよ…

と思ってしまったのは、私が「和をもって尊しとなす」日本人だからに他ならないでしょう(笑)

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個人が合理的でも社会は不合理な選択をする

合成の誤謬

「合成の誤謬ごびゅう」とは、ウィキペディアによると、

ミクロの視点では正しいことでも、それが合成されたマクロ(集計量)の世界では、必ずしも意図しない結果が生じること

ウィキペディアより

で、経済学の用語です。

有名なところでは、「個人を富ます貯蓄が全体を貧しくする」という、「ケインズのジレンマ」があります。

個人が貯蓄に励めば、個人の富は増えますが、消費は激減します。
その結果、有効需要は激減し、国民所得も激減する、つまり社会全体は貧しくなってしまうのです。

「ケインズのジレンマ」に関しては比較的有名で、なんとなく感覚的に理解する事はできると思います。

ところが、小室先生は

「合成の誤謬」のなかには、感覚的理解と全く反するようなものが多い

と述べています。

まず、その理論的根拠である「アローズ・ジレンマ」(アローの背理)について述べておきたい

ちょっと難しくなってきましたが、

がんばって、噛み砕くにゃん!

というわけで、「可能な限りやさしい解説」に Let’s try! だにゃん!(笑)

アローズ・ジレンマ(アローの背理)

まず、アローズ・ジレンマの前提となっている「合理的選択」について説明しておこう。
 合理的とは、数学的にいうと、推移律を満たすことである。具体的には、「BよりAを好む」「CよりBを好む」.の二つが成り立てば、必ず「CよりAを好む」も成り立つということだ。

「数学を使わない数学の講義」小室直樹著 WACより

例えば、

リンゴよりミカンが好き

バナナよりリンゴが好き

ということであれば、必ず

バナナよりミカンが好き

ということになります。

繰り返しになりますが、アローズ・ジレンマの前提である「合理的選択」の「合理的」とは、この推移律を満たすことにあります。

逆に、推移律が成り立たない場合とは、代表的なものは「ジャンケン」、他にも、「ヘビ×カエル×ナメクジ」「ハブ×マングース×猫」などの三すくみの関係もあります。

これらのケースは、サイクリック・オーダー(循環律)と言い、推移律ではありません。

人の好き嫌いでも、推移律が成り立たない事はあります。

例えば、

仕事をしている時のこの人は素晴らしいが、プライベートではあまり好ましくない

といったように、前提条件で、その人に対する好き嫌いが変わってくるといったような場合がそれにあたります。

どんなあなたでも大好き!

といった盲目状態であれば、推移律は成立するのかもしれませんが… (笑)

そんな具合に、推移律というのは、成り立つ場合も成り立たない場合もあるわけだが、商品の選択とか政策の選択とかに関しては、その人に特殊な条件が付帯していなければ、この推移律は成り立つ。

「数学を使わない数学の講義」小室直樹著 WACより

ということを踏まえて、日本の政治を例に取ってみると、

自民党と民進党なら自民党を採る、民進党と共産党なら、民進党を採るという考え方の人が、共産党と自民党のどちらかを選べといわれたら、自民党を選択する。もし共産党を選択してしまうというのなら、推移律は成り立たないし、そういう人が数多く増えてくると、選挙という場における国民のデシジョン ・メイキング(意思決定)がひじょうに不合理にならざるを得ないのである。

「数学を使わない数学の講義」小室直樹著 WACより

要するに、

理屈に合わんがな…

という状態ですが、この「理屈に合わない状態」が起こりうることを証明してしまったのが、アローさんなんですね。

※ この本は2005年5月に出版されたものの改訂版で、2023年現在では「民進党」は国政政党としては存在していません。

アローズ・ジレンマについて、小室先生は、先程の政党の例を使って表にして詳しく説明してくれています。

その表をさらに2つに分解して、まとめてみました。

まず、前提条件は

  • 推移律が成り立つ合理的選択が行われる
  • 選択肢がA(自民党)、B(立民党)、 C(共産党)の3つしかない
  • 選択する側の人間は、X、Y、Zの3人しかいない

    ※民進党は、現国政政党の立民党に置き換えています

アローの背理
個人個人がそれぞれ合理的選択をしても、社会は、合理的選択をするとは限らない

(例)政党の支持に見る背理

Xさん: A > B B > C → A > C
Yさん: B > C C > A → B > A
Zさん: C > A A > B → C > B

という合理的選択が行われました。

これをまとめると、

A、B間では A > Bが2人(B > Aが1人)
B、C間では B > Cが2人(C > Bが1人)
C、A間では C > Aが2人(A > Cが1人)

その結果、

A(自民党) >B(立民党) B(立民党)> C(共産党)であるのに
A(自民党) >C(共産党)とならず、A(自民党) < C (共産党)となる

驚くべきことに、社会には3人の人間と3つの政党しかなく、3人とも合理的選択をするという最も単純なモデルケースで検討した場合でさえ、個人の選択が合理的でも、社会全体としては不合理なことが起こる、ということが証明されてしまいました。

現実の社会においては、当然、人間の数ももっと多いわけだし、選択肢の数だって、もっと多い。とすれば、個人個人が合理的な選択をしているにもかかわらず、社会全体としては、様々な不合理現象が生じても、何の不思議もない。これが、いわゆる、アローズ・ジレンマであり、ケネス・ジョセフ・アロー(1921年〜)は、これを発見した功績によって、1972年、ノーベル経済学賞を受けている。

「数学を使わない数学の講義」小室直樹著 WACより
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個人の命題か、社会の命題かを区別する

これまでのことを踏まえると、社会とは人間の集合であり、社会に関して何か命題を述べる場合には、それが個々人に関する命題なのか、社会全体に関しての命題なのかを明確に区別することがいかに重要かがわかります。

小室先生は

これを区別しないと、とんでもない誤謬を招きかねない

といいます。

わかりやすい具体例として、戦争に関しての例が挙げられています。

戦争とは、いうまでもなく国家間における戦いである。従って、各個人がどうこうできるという性質のものではない。だから、国民の一人ひとりはことごとく戦争を望んでいないとしても、国家自身が戦争を欲するという事はあり得る。
 つまり、「戦争をする」という行為は、国家の命題であって、個々人の命題ではない。日本には、それを全く理解せず、一人ひとりが「平和、平和」と念仏のごとく唱え、祈ってさえいれば、平和が来ると信じ込んでいる、いわば平和念力主義者たちがあまりにも多い。

「数学を使わない数学の講義」小室直樹著 WACより

過激な表現ではありますが、これもまた現実であることは理解できます。

 常識的な考え方では、皆がいい人になれば、社会全体がよくなり、また、すべての人が平和を欲すれば戦争は起こらない、という意見が正しく思えても不思議はない。しかし、数学的論理に従ってきちんと検証してみれば、今述べたとおり、そんなものは嘘っぱちだということが、すぐにわかる。その意味でも、数学の論理というのは極めて貴重なものなのである。

「数学を使わない数学の講義」小室直樹著 WACより

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まとめ

この本を読んで、自分が

何でそーなるの?

と思うような事でも、

必然的な結果として起こることもあるのね

ということがよくわかりました。

「数学のオペレーション(計算などの操作)」は相変わらず苦手ですが、「私立文系」の私でも「数学の論理」を身につける事は可能です。

そしてそれは、今後の人間関係や、社会現象の真の姿を見極めるための「新しい武器(切り口)」とすることができるでしょう。

「私立文系」の皆さん!
あなたの目に貼り付いたウロコ、落としてみませんか? (笑)

著:小室直樹
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